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ラテンポップスの女王!グロリアエステファン 

グロリアエステファンGloria Estefan(グロリアエステファン)
今日のラテン・ポップ・ミュージック隆盛の扉を開いたアーティストであり、ラテン・ポップ・ミュージックの象徴、マイアミが生んだ世界のスーパースター、グロリア・エステファン
■アメリカン・ドリーム
 1980年、グロリアには公私ともにいくつもの転機が訪れる。まず、結婚したグロリアとエミリオの間に長男ナイーブが誕生。その一方で父ホセの他界。このように大きな出来事が続く傍ら、バンドの方もこの年にCBSインターナショナルと契約。英語アルバムをリリースする85年までに7枚のスペイン語アルバムを制作し、ラテン・アメリカ圏で大ブレイクを果たす。後にスタジアムでのライヴをソールド・アウトにするほどのトップ・グループへと成長、絶大な人気を博すようになった。
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その後、ラテン・アメリカだけでなく、アメリカでの成功を目指すために、マイアミ・サウンド・マシーンは英語での楽曲を制作し始める。ラテンとダンス・ミュージックをポップにミックスしたデビュー・アルバム『ドクター・ビート(原題:EYES OF INNOCENCE)』(1984)は、今までにないオリジナリティ溢れる斬新なものとして世界の注目を集めた。本物のパーカッションとホーンを導入して、ダンス・ミュージックとキューバ音楽の要素を合体させた熱狂的な初の英語シングル「ドクター・ビート」は、まずはUKチャート6位を記録するなどヨーロッパでプレイク、アメリカでもビルボード・ダンス・チャートのトップ10入りを果たした。そんな上昇気流に乗り、2ndアルバム『プリミティヴ・ラヴ』を翌年1985年に発表。あっという間に世界的な大プレイクを果たし、アメリカでは当時150万枚以上のセールスを記録、全米チャートではトップ10に3曲を送り込む成功を収めた。全世界でのセールスも300万枚(当時)を突破、彼らはアメリカン・ドリームを実現させたのだった。エミリオはその当時を回想して次のように語っている。

「最初はレコード会社は僕らのやり方が気に入らなかったんだ。だけどヨーロッパでは「ドクター・ビート」が受けたんだよ。だから自分たちは間違っていないと思っていたんだ。そして、グロリアに"キューバの伝統的なコンガをやろう!"っていってライヴでやったら、これも大ウケ。ヨーロッパから帰ってきて思ったのは、僕たちが何をやるにしても、それは本格的なものでなければならない、僕たち自身をハッキリと表したものでなければならないということだった。誰かの真似をしていたんじゃヒットは作れない。レコード会社が気に入るかどうかじゃなくて、自分自身の音楽をやることが大切なんだ。そして僕たちは3ヶ月もスタジオにこもって「コンガ」を作り上げ、エピックに持っていった。そしたら今度も連中は、ボクをオフィスから叩き出さんばかりの勢いだったね。"これじゃダメだ。英語マーケットにもラテン・マーケットにもアピールしないし、ラジオもかけないよ"と言う訳よ。そこで僕は"これは自分たちの文化を代表するサウンドだから、チャンスをくれ"といったんだ。まだラテン音楽がメジャー・マーケットでは受け入れられていない時代だったよ。周囲はリスクが大きすぎるって言っていたけど、リスクは覚悟の上さ。でも、発売されてみると...。あのときのことは忘れられないな!メキシコの映画プロデューサーがアルバムを気に入って6曲も使ってくれたし、全米で145のラジオ局が「コンガ」をかけ始めていたんだ。ヒットしたんだよ!それでボクはハッキリわかった。プロデューサーとして大切なことは、レコード会社のいうことを聞くことではなく、自分自身の音を作ることなんだ。ボクたちの成功は、自分たちがどこから来たのかを忘れなかったからだ。ラテン音楽はボクたちのサウンドの中で非常に重要な位置を占めているし、ラジオはそういう音に対してとてもオープンだったよ。そして、僕たちにとってよかったのは、「コンガ」だけで終わらなかったことだ。それ以降、「バッド・ボーイズ」「エニシング・フォー・ユー」.....たくさんのヒット曲を生む結果になったからね」
 彼らの勢いはもうとどまるところを知らない。グループ名をメグロリア・エステファン&マイアミ・サウンド・マシーンモと変更し、一層グロリアをフロントに押し上げ、次々とヒットを飛ばす布石を打つ。同86年には第15回東京音楽祭出演のため初来日。全国縦断コンサートも行った。満を持して1987年、 3rdアルバム『レット・イット・ルース』を発表。前作を上回る4枚のトップ10ヒット、うちグロリアのペンによる「エニシング・フォー・ユー」は初の全米1位を獲得する。セールスは全世界で約600万枚(当時)に達した。同年6月には2度目の来日公演が実現、見事に成功させた。
 続く1989年、ここで遂にグロリア・エステファンのソロ・アーティストとしての活動がスタートする。グロリア・エステファンとしての1stアルバム『カッツ・ボース・ウェイズ』を発表、このアルバムからはグロリアにとって2曲目のNO.1ヒットとなる「ドント・ウォナ・ルーズ・ユー」を含むヒット曲が数多く生まれた。結果的にこのソロ・デビュー作は前作を越える約600万枚以上を売り上げた。まさに名実ともにアメリカン・ドリームの象徴的存在となったのである。それは、黒人に次ぐマイノリティであるヒスパニック系のヒロインとして、ラテン・ピープルの代弁者として。グロリアはアメリカの人々だけに愛され、尊敬されるだけでなく、世界的なトップ・スターとなっていったのである。しかしこのとき、順風満帆な音楽活動を続けるグロリアは勿論のこと、世界中の人々も彼女の生命を脅かす出来事がその先に待ち受けていることを知る由もなかった...。(Gloria Estefanオフィシャルサイトより)
Gloria Estefan/90 Millas
彼女の音楽性のルーツであるキューバ/ヒスパニックの音楽、文化、そしてラテン・ミュージシャンたちに敬意を払って制作された作品で、全編スペイン語詞のアルバムとなります。豊富なキャリアと天賦の才を持つまさにGloriaでしか生み出せなかったと言えるこの作品、Carlos Santana、Sheila Eなど豪華なゲスト・ミュージシャンも参加し花を添えています。

Gloria Estefan - You'll Be Mine (Party Time)

Gloria Estefan/Essential (Rmt)
You'll Be Mine (Party Time)収録アルバム
試聴できます^^





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